当事者になると物事を捉える軸が揺らぐ

約1ヶ月前、秋葉原の通り魔事件の犯人の死刑が執行された

 

これについて、自分なりに死刑について考えた記事を書いたが、やっぱり当事者かどうかで大きく意見は変わるのだなと実感した

 

死刑に限った話ではない

 

リーガル・ハイでもテーマになっていた記憶があるもので、医療事故や医療過誤についての話がある

 

事故と過誤の違いは検索してほしい

 

医者にとっては患者は複数いるうちのひとり

 

一方、患者にとっては自分の大事な命だし、家族や周りの人にとっても、唯一無二の存在

 

自分や自分の周りの人が被害者にならなければ、感情を入れることなく、悪く言えばドライに議論を展開できる

 

ただ、身の回りの人が被害者になった途端、突然感情的になって意見をひっくり返す人がいる

 

ワクチンなんていい例じゃないか

 

自分や周りの人がワクチンで死ななければ、ワクチンは打つべきとかなんとか言う

 

でも、家族がワクチンで被害を受けたらどうか

 

話が違うとかなんとか言って騒ぐだろう

 

もちろん本当に話が違う場合もあるだろうから、その場その状況の確認は必要だろう

 

でも、過失がない場合は誰に責任を押し付けるのだろうか

 

当事者になる前は自己責任とか言ってた人が、当事者になると自己責任の論調ではなくなるのは違う

 

自分の哲学はいかなるときでも変わらないのが好ましいはずだ

 

まぁ、それが難しいのが現実

 

ああ言えばこう言うやつが世の中には多くて、過去の発言を遡って揚げ足を取ったりするやつがいて

 

自分の意見を曲げずに、かつ論理的に矛盾なく通すことが理想ではある

 

だが、匿名(と言う名の高み)からとやかく言う奴のせいで自分の意見を持つのが怖くなってしまう

 

これが、曖昧に意見を出してしまう人が多い理由なのではないか

 

自分の中の曲がることのない思想を持ち、その軸に従ってブレない行動を取ることは難しいし、粗探しをするように周りからあれこれ言われる

 

だったらふわっとした考えで、何にでもなれる思想を持っていれば世渡り上手っぽくて楽だと思ってしまう

 

そんな感じで、自分の哲学を捨てたり、表現しない人が増えている気がする

 

過去の発言が残ったり、発言が世の中の無数の人に見える形で発信される時代だからこそ起きた考え方の変化な気がする

 

いや、変化したかはわからないけど、少なくとも今を生きる人たちはふわっと哲学でその場しのぎをしている気がする

 

果たして自分はどうだろうか

 

できるだけ自分の意見を持とうとしているが、やっぱりふわっとした哲学になっているのだろう

 

揺るがない軸で物事を考えるのは難しい

 

だが、大事なことでもある